石黒 茂[作業療法学専攻]
入梅前の6月初旬、わが家の庭で咲く花が増えてきた。定番のアジサイから始まり、ノカンゾウ、はたまたドクダミの花まで10種類近くの花が咲いている。そんな中、白い大きな花が急に目に付きだした。一つはクチナシであり、もう一つはユリである。ともに狭い庭では余計目立つ。ついこの前までは咲いていなかったのに、ここ1~2日で急に開花したようだ。長いこと見てきた庭の風景に、なぜか新鮮さを感じる。 ユリと言えば、30年以上も前になるが、高校に勤務していた頃、愛知県教育センターの先生に指導を受け、ユリの花期培養の教材化に取り組んだことがある。指導を受けた先生はランの組織培養の大家(博士)であり、細かく指導していただき、そのお陰で組織培養の技術にはちょっとした自信をもつことができた。 それから数年後、愛知県の農業試験場でアルバイトの女性が洋ランの成長点培養をやっているのを見て、そんな自信も吹き飛んだ。その頃、ラン培養の技術は急速に進み、短い年月の間に、簡単にランの培養ができるようになっていたのである。ランの培養技術の発展は、栽培が難しかったため非常に高価であった洋ランを安価なものとし、どこの花屋の店頭にも並んで各家庭に広がった。そして愛知県は洋ランの一大生産地になることができた。 科学技術の発展はおうおうにして、モノの価値を大きく変え、人々の思考や行動パターンまでも変えてしまう。最近の科学技術の進展が激しい社会では、そんなことは珍しくない。携帯電話それに続くスマートフォンもそうだ。世の中に広く普及し、確実に人々の思考や行動パターンを変えている。スマホがあれば何でもでき、コンピュータは古いツールになってしまった。 2か月ほど前、愛用のガラケーが故障し、私もついにスマホデビューを果たしたが、ぜんぜん扱えない。スマホを持っていても使えるものは電話とメールのみで、使い勝手が分からず、ガラケーの時代より、かえって退化した感がある。通勤の電車の中などで、スマホを自在に扱っている人を見るたびに、完全に時代の流れに取り残されたと実感する。 そんな私のような人のために、携帯電話販売会社では、スマホ教室を開催し個人レッスンを行ってくれる。これが生涯学習社会の現実かと思いながら、一度レッスンに行ってみると、最後に「今度来るときは、聞きたいことをまとめてから来てくださいね。」とやさしく言われた。「能動的に学ばねば意味がない!」私が日頃学生に言っていることと一緒だ。しかし、スマホが使えないから質問も出ない。そもそも分からないところが分からないから、何を聞いていいのか分からない。能動的に学ぶとは何と高度なことか。 学ぶべきことが分からない者、能動的に学びたくても、学ぶすべをもたない者の気持ちがよく分かる。スマホのお陰で学生の気持ちがよく理解できた。
教員リレーコラム